バンクーバー物語

Episode11    FOURSOME

私達は一般的にプレーをする時(ゴルフでもテニスでも)4人組の事をFoursomeと
言っていました。
ここで私の自慢のFoursome Friendsをご紹介しましょう。
このメンバーとの出会いは、Dunbarコミュニティセンターが提供しているテニス同好会
でのことでした。
(このDunbarコミュニティセンターに関しはエピソード7のエッセイで紹介しています。)
http://home.k04.itscom.net/jurabe/Essay/episode7/Tennis Pilgrimage.htm

  レイとエルノラの結婚30周年記念パーティにてFoursome Friends


Friendship Esaay Index Episode12
最初に出会ったのが、そののち私の英語のプライベートレッスンの先生となったエルノラ。
彼女とはその同好会での同期生でした。
彼女の母親はドイツ系ロシア人なのですか、1927年に領土紛争のあおりを受け、
他の家族を今日のバルト三国の一つ、ラトビアに残したまま姉や叔母と共にカナダへの移住
を余儀なくされ、その移り住んだカナダ東部のウイニペグでエルノラの父と出会って結婚し
たのです。
しかし、何時かは離散家族が再会する事を信じてその後、有能な外科医になった彼女の弟は、
彼の亡命を恐れる政府によって決して自国を出国する事が出来なかったそうです。
やがて予想だにしていなかったソビエト連邦が1991年に崩壊し、他国との往来が自由に
なった時には既に彼等は高齢となっており、その夢は決して実現されなかった、っと言う
エピソードを聞いて、その華奢で小柄なエルノラの母からは想像もつかない過去を
背負っているのだ、、っと、単一民族の日本人である私は感慨を深く持ったのでした。

エルノラは小柄な母親からは似ても似つかない様なおデブさんでしたが、とても明るく
楽しい、何事にも興味と行動力を示す、そして、スポーツと音楽を愛する、
しかしながらちょっとボッシー(ボスの様な威張りや)な女性でした。
彼女の御主人はレイと言って、穏やかで優しいブリティッシュ・コロンビア大学(UBC)
の工学の教授でした。
エルノラは私の“バンクーバーの母”と言っても過言で無い存在で、カナダでの不慣れな
生活を色々サポートしてくれた、私の大恩人です。
彼女は単に英語の勉強だけに留まらず、バンクーバーやカナダの歴史や文化(芸術や音楽)、
そして色々な情報を事ある毎に教えてくれる先生でもあり、私のみならず、夫もゴルフや
食事に誘ってくれたり、また、私の両親がバンクーバーを訪れた際にも私達をホームパーティ
に招待してくれるなど、家族単位の親密な関係を持つ友人でもありました。
そして、私のテニス人生を開拓して行ってくれたのもそのエルノラなのです。

私がテニスをスタートしたDunbarコミュニティセンターのクラスには、移民の国カナダの
所以通り、国籍がカナダ人であっても、アメリカ、イギリス、 ドイツ、イタリア、
オーストラリア、中国、韓国、ベトナム等を母国とする、正に色んな人種がテニスと言う同じ
目的で所属していました。そして、週一度の決められた時間に集まってテニスを楽しんだり、
そのゲームにあぶれた者は、自分の出番を待つ間のシッティングタイムに世間話等おしゃべり
の花を咲かせていたのでした。
その中にFoursome Friendsとなるジトとシルビアもいたのです。

ジトはバンクーバーで生まれ育ったインド人なのですが、自分のルーツであるインドを一度
も訪れた事が無いと語っていました。
そして、御主人も同じおいたちのインド系カナダ人のバクスターです。
彼女はFoursome Friendsの中では一番の年上なのですが、ボスはエルノラに譲る様な心の優
しい人で、若い時には色々苦労をして来たのにも拘らずとても明るく思いやりがあり、
人生の楽しみ方を沢山知っている陽気な人でした。
食べる事が大好きで2人でアチコチのレストラン巡りをしたり、週一度は必ず家族全員が
彼女の家に集合するファミリーディナーでは、可愛い孫達の為にその自慢のお料理をいつも
披露していました。
私も毎年クリスマスには、お手製の美味しい生チョコトリュフをプレゼントしてもらえるのを
楽しみにしていた一人です。

そして、もう一人のメンバーが台湾人のシルビア。
彼女は英語を教える為にカナダから台湾へ来ていたフランス系カナダ人のドレイクと恋に
落ち、バンクーバーに移り住んだのです。
私と彼女が知り合った当時は、ドレイクはサウジアラビアで英語の教師として単身赴任をして
いたので、留守を預かるシルビアは目の前がテニスコートであると言う環境も手伝って、
毎日テニス三昧の生活、その練習量の多さで私達の中では一番ステディでミスの少ないテニス
をしていました。
彼女はとても聡明で勉強熱心、その真面目さゆえに初めはちょっと近寄りがたいイメージが
あったのですが、付き合ってみるとざっくばらんで気が置けなく、その気だての良さで
テニス仲間のおじいちゃん達からは絶大な人気を博しておりました。
私も時々、そのおじいちゃん達のグループからお声がかかり、朝早くから(お年寄りだから、
いつも朝早い)近隣の住人達の迷惑を省みず、大声でテニスボールを追っかけ、
愉快で楽しい時間を共有させてもらっていました。
後に御主人のドレイクが退職して、やっとバンクーバーで一緒に生活が出来るようになった
のですが、残念な事に数年後、彼は癌の病に侵され帰らぬ人となってしまいました。

エピソード7で書いた様に、11月から3月の冬の間バンクーバーはとても雨が多く、
アウトドアコートしか無かったDunbarコミュニティセンターでの活動はこの期間は
お休みです。
このセンターで仲良くなった私達は、冬の間もテニスがしたいと言う思いが一致し、
4人組(Foursome)を早速結成し、隣街リッチモンドにあるデルタホテルのインドアコート
をレンタルする事によって、週一度のテニスゲームを続けて行く事になったのです。
こうやって私達の友情は生まれたのです。
コートの予約やゲーム等を企画するのはいつも行動力のあるエルノラ。
ボーッシーと言われる所以です。
其のうちマンネリ化して来た私達のテニスを思いやる彼女の提案で、私達はグレート 
バンクーバーが運営するさらにもっと高度なテクニックとチャレンジを要求される
“マスターズ”(資格は40歳以上の男女)協会にDunbarから籍を移したのでした。
当時、まだ39歳で40に満たない私でしたが、エルノラの口添えで準メンバーとして入会
させてもらう事が出来、お陰で新しいテニスの環境に突入する事が出来たのもラッキーでした。
“マスターズ”でのテニスゲームはコーディネーターが各レベルにアレンジした総当りの
個人戦ゆえ、実力の違う私達は以前のように四人一緒でテニスをする事が難しくなってしまい
ましたが、それでも時々集まってランチとおしゃべりをする機会は持ち続けていました。
やがてそれがいつの間にか夫々の誕生日を祝うランチとなって行ったのです。
そうすれば、少なくとも必ず年4回は皆に会えるのですから、、、、。
コレもスマートなエルノラのアイデアです。

その習慣は私がバンクーバーを離れて早9年にもなる今日でも続いているのです。
(私の誕生日にはもちろん会うことが出来ないのでカードを頂くだけなのですが、、。)
そして、毎年、彼女達の誕生日の集まりに撮った写真をメールで送って来てくれます。
其処に私が居ないのはとても残念ですが、しかし、年齢も生い立ちも違うカナダ人、
インド人、中国人と日本人で結成され素晴らし友情を育む事が出来た幸運、
そして、このとてもユニークな関係を、心から誇りに思っている私です。
其の上、この交友は夫人達だけに留まらず、夫々の夫達を交えた夫婦単位でも続いている
のですから、とても素敵なことです。

左から容志孝、エルノラ、レイ、順子、ドレイク、シルビア、ジト、バクスター