Daniel Part2
Essay Index
Episode7
Daniel
人との出会いは、それが偶然でも必然でも、とても素敵なものです。
社会生活に疎い専業主婦にとって、人生で出会える人は、そんなに沢山はいないでしょう。
また、出会った人、皆が双方にとって特別な存在には成り得無いし、
私自身、八方美人で全ての人に接する事も不可能です。
其の中で、自分の人生が変わる程影響を受けた人物と、出会えるチャンスに恵まれた人は、
正にラッキーです。
Danielは、私にとってそんな人物の一人でした。

バンクーバー時代、我が家の夕食にお招きしたゲストは皆、好むと好まざるに拘らず、
其の家の女主人の演奏を聴かなければならないルールが、いつの間にか出来ていました。
其の夜も、以前、主人の会社の支店長宅でのパーティで知り合った、 カナダ人の弁護士夫妻
を招待して、食後のコンサートを開催していました。
当時、私は大好きだったDavid Foster(グラミー賞に何度も輝いた、カナダ出身の作曲家、
ピアニスト、そして、有能なプロデューサー)のCDの中にあるカルガリーオリンピックの
イメージソングとなった“Winter Game”(1988年冬季オリンピック)を完全にコピーし、
オーケストラとリズムのパートをシンセサイザーで打ち込んだカラオケを作り、
それをバックにピアノのパートを弾いて有頂天になっていました。
演奏が終わったら、その弁護士のブキャナン氏が、
“奇遇だ!僕の親友の息子が、同じような音楽(シンセミュージック)をやっている!
もしよかったら、彼と会ってみる気はないか?“
っと、私に聞いたのです。
好奇心が旺盛な私は、二つ返事で答えたのでした。
そして、数日後、ブキャナン夫妻と私達は、ダニエルの自宅を訪れる運びとなったのです。

彼の家は、我が家から車で一時間程離れた、ライオンズベイと言う海の見える、
景色の素晴らしい丘の上に建っている、瀟洒な佇まいの家でした。
其の居間から眺める、 海の向こうに沈む夕焼けの270度大パノラマは、言葉を失うほどのものでした。
この景色が毎日見られるなんて、本当に羨ましい限りです。
Danielの父、Tedはカナダ東部のノヴァスコシャ出身の画家で、日本で版画を修行している時代、
Takaeさんと知り合い、恋に落ち、そしてDanielが誕生したのです。
予断ですが、子供の頃、“あいの子(混血児)”と大人たちが言っているのを聞いて、
“愛の子”と勘違いして、“何て素敵な子供なのか!”っと、ずっと思っていましたが、
Danielは正にお二人の愛の子、大事な一人息子でした。
Tedがエルトンジョンの大フアンだった事もあり、彼のヒット曲のタイトル“Daniel”を
名前として付けたのだそうです。“Daniel”と言う名前は、男女兼用のフランス人名です。

     
         
Danielのご両親と私たち   我が家でのPartyにて


これらの予備知識をブキャナン氏からあらかじめ伝えられていた私は、
ひょろひょろと頼り甲斐の無い姿で現れた(失礼!)Danielを初めて見た時、
“この17歳の男の子と私、一体話が合うのかしら?”
と、少々不安になってしまいました。
なぜなら、私は20歳も年上のおばさんだったのですから、、、、、。
挨拶もソコソコに、Danielと私は彼の音楽機材のセットがある自室に篭り、 主人やブキャナン夫妻、
Danielのご両親との会話もそっちのけで、 彼と何時間も音楽の話しに夢中になっていました。
(注釈*Danielは日本生まれで日本語は完璧、英語も話せるバイリンガルです)
偶然にも同じタイプの音楽、Fusion Jazzが好きだった私達は、 幾ら話しても話が尽きなかったのでした。

当時、私はシンセサイザーの一つ、気の遠くなる程煩雑な作業が伴うシーケンサーと言う機械を使って、
夫々のデーターをコントロールしていたのですが、 一方、Danielはコンピューターでスマートに、色々な
音楽を生み出していました。
何年も前からコンピューターミュージックには、憧れを持っていたのですが、コンピューターは高値の花、
ましてや、ソフトや関係機材を含めると、小型の車が買える程の値段となり、 趣味で音楽をやっている私
には諦めざるを得ない環境でした。 しかし、Danielの話でそう手の届かない代物ではない旨を知り、
ついに私もコンピューターミュージックのデビューとなったのです。
それには、Danielのヘルプが不可欠でした。
なぜなら、私はコンピューターの知識に関しては、まるっきりのど素人! 

其の頃、今日のMicrosoft 社の隆盛を築くきっかけとなった、Windows3.1が開発され、
企業でのビジネス用途として急速に普及をなしていた事もあり、 価格もお手頃となり、その上、
コンピューターの操作自体の安定、かつ簡素化も手伝って、コンピューターのビギナーで
ある私には、とてもラッキーな時期だったと思います。
しかし、お店の人との交渉やハード関係の操作等、 何の知識も無い私ではお手上げ状態です。
そういった点でもDanielには感謝してもし切れない思いがあります。
彼にコンピューターミュージックのノウハウを一から教えてもらい、
そして、私はだんだんとこの世界にのめり 込んで行ったのでした。
新しい知識やテクニックに触れ、毎日が感動と驚きと喜びの連続でした。
当時は、年甲斐も無く自分の子供ほどの年齢の青年に対抗意識を燃やし、寝る時間も惜しんで作曲に
没頭したものです。

     
  
3Decades Amigos 左からDaniel,Massimo(私のイタリア語の先生)私そして、David  

また、Danielの親友達、当時16歳のカナダ人のコンピューターの天才Mark(彼には私のPCがトラブル
を起こす度、修理を依頼して、多大な迷惑を掛けてしまいました)と15歳の韓国人のスーパーマルチ少年
David (彼は韓英日語のトライリンガル、もちろんコンピューターに長じて、エレクトーンはコンクールで優勝!
スキーのインストラクターと文武両道の恐るべし少年)を紹介され、その才能溢れた若い彼らとの交流は、
私に沢山の刺激とエネルギー、そして、夢を与えてくれたようです。
※彼等は現在、結婚して、素晴らしい家庭を築き、夫々幸せに暮らしています。

才気満ちた少年Danielとの出会いは、この様に私の環境に色々な要素と変化をもたらしてくれたのです。


Daniel Part 2に続く
Ted Colyer 氏のWeb Site
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