巻き爪


バチッ・・

バチンッ!・・・・


夏風がそっと吹きこむのどかな午後。
時間が止まってしまったかのような静けさに包まれたリビングに
ソリッドな音が不規則に響く。
イングランドにしては珍しく外はカラッと晴れ渡り、窓から見える木々が金色に色づいてそよそよと揺れている。
もはや出る幕無しの暖炉の脇には、かがみこんだ私を見つめる、埃をかぶった二匹のヨークシャーテリア犬のセラミック像。

バチンッ!・・・・

上を見上げると、ホストマザーが涙目で呻きながら「新しい足が欲しい。」と冗談を言った。
いま私の手の中にある彼女の足の親指、それには長く切っていなかったらしい爪がキツイカーブを描いて深く食い込んでいる。
黒ずみがかった爪はえらくくたびれていて、彼女の生きてきた長い歳月を物語っていた。

手にしたネイル・クリッパーがギラリと光る。
私はちょっと神経質になってホストマザーの巻き爪に再度取りかかった。

私がイングランドでお世話になっているホストマザーは州にも登録されている結構な障害者だ。
自分で自分の足の爪が見えないほど目が悪ければ、耳も足も悪い。
一日に五回の点眼、テレビはいつも最大音量で、歩くのは非常に遅く
物につかまりながら一歩一歩踏みしめるような感じなのでトイレに間に合わないこともしばしばだ。

最初彼女に会ったときはショックだった。
この人が一年間私の家族となる人なのか・・・?

短い人生、今まで生きてきた中で入院中の患者などを除けばここまで重症の人を見たことがなかった。
ホストマザーと同じ年齢層の自分の祖父母はなんだかんだで元気にやっているし、
家族にいたってはイヤになるほどみんな健康だ。

そして、私はいつもその健康な家族に頼りきってきた。
風邪を引いた時には看病をしてもらい、遠出をするときは車に乗せてもらった。
家族は「頼るもの」。
甘えん坊の脳内にはそうインプットされていた。
事実、自分自身がなにか家族のために役立った覚えは無い。

ところが、2003年9月事態は逆転した。
ホストマザーの重症ぶりを見た途端、私はもう自分が「頼る側」ではなくなったことを悟る。
自分の家事さえおろそかだった私が、人の家事までやることになった。
最初の数週間、初めてやるいろんな家事に結構緊張していたのを覚えている。
それでも、初めて人から頼りにされるという経験、
そこに自分の存在価値を見出したような気がしてちょっぴり嬉しかった。
自分は今、人から求められている。

それから数ヶ月が経った。
私は従来どおり家事を淡々とこなしていたけれど、
ある時からホストマザーのライフスタイルにひどくいらだちを覚えるようになった。
もともと性格が短気なせいかもしれない。

すぐ「疲れた」と言う彼女の癖がいやだった。
「疲れた」という言葉が深いため息と発せられた瞬間、
大気中の粒子が一万倍の重さを伴って地球の裏側まで到達してしまうことを彼女は知らない。

ある時、皮肉を込めて「怒っているの?」と聞き返したことがあった。
ホストマザーがヒステリックに返してきたのは「今ちょうど朝ごはん食べたばっかでしょ!」というセリフ。
耳が悪いのでhungryとangryを聞き間違えたのだ。
私はますます嫌になって俯いた。

彼女が全然外出しないのがいやだった。
24時間テレビでくだらないソープオペラ(メロドラマ)を爆音で観続け
料理と電話で終わる彼女の一日。

外に出ればもっとおもしろいことがいっぱいあるのに。

心の中で何度もそう思った。
暇が有り余っているなら、美術館やコンサートにでかけたっていいじゃないか。
そうでなくても趣味ぐらいひとつ持てばいい。
絵画、楽器、読書・・・すぐに手をつけられる趣味はいっぱいある。

彼女を見て、年を取るのが怖くなった。
長生きしたくない。
こんな風に家で腐ってゆくのなら思いっきり濃い生活をして若くして死にたい。

そんなある日、彼女は珍しく自分の昔話を私に語って聞かせてくれた。
ヨークシャーで過ごした幼年時代の思い出。
厳しかった父親。
パブで食器洗いを毎日のようにしていた辛い日々云々。
読書が大好きだったこと。
そして、あんなに好きだった本も今では目のせいで読めなくなった、と付け加えた。

それを聞いた瞬間、ものすごい自己嫌悪に襲われた。

どうして今まで気づくことができなかったんだろう。
やりたい事はいっぱいあるはずなのに、それを実行できない彼女の老いてしまったカラダ。
そして溜まっていくフラストレーション。
「疲れた」とすぐ口にしてしまうのも、テレビを観続けるのも、彼女が求めていることではないはずだ。

今でもやっぱり発作的にむかつくことはある。
忍耐が美徳とは思いたくないけれど
老人だから、障害者だから簡単に弱音を吐いていいと思ったらそれは独り善がりな勘違いだと思う。
五体満足のヤツがなんて非情なことをと言われるかもしれないけれど、
世の中には多くの人がどうしようもできない悩みを抱えて生きている。

「疲れた」と言われると
「なにもやってないくせに・・・誰があんたのパンツを洗って干してると思ってるんだ。」
低級な感情が脳内を駆け巡る。
けれども、そうやって思ってしまった後に、やりきれない悲しさにとらわれるのだった。

「なにもやってないんじゃなくて、なにもできないんだ。」

障害を持つ人々と同じ屋根の下で暮らしていくというのは、その本人にとっても周りにとっても厳しい。
学校でやるボランティア体験学習とはワケが違う。
当人が親族だったらまた抱く感情も違うのかもしれないけれど、
死ぬまでずっと今のホストマザーと暮らしなさいと言われれば、四六時中優しくしてあげられるかどうか自信がない。

彼女が抱える、こびりついて離れない数々の巻き爪。
切り取ってしまうには日常にあまりにも深く食い込んでいて、激しい痛みが伴う。
手にしたネイル・クリッパーは怖さで震えてなにをしていいか分からず、
私にも、彼女にも、もどかしさが募る。
どうすればこの悪循環を打破できるのだろうか?

彼女の目も耳も足も治してやれない私は、まだ答えを見つけられずにいる。

巻き爪はなかなか頑固だ。
三十分くらいトライし続けたところで私は諦め、「医者に行ったほうがいいよ。」と言った。
まだ諦めきれない様子の彼女。

「しょうがないよ。深すぎ・・・なにかが深くまで達してること(食い込む)ってなんて言うの?」
「なに言ってるか分からないよ。」
「そう・・・。紅茶、入れようか?」

「うん、お願い。」

結局私は彼女の巻き爪を切り取ってやることができなかった。


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