うす緑一色のシンプルな背景、
アルルで新しい芸術を生み出す場である
ユートピア「黄色い家」に情熱を傾ける伝道師。
そして、そのコロニーを司る
悟りを開いた崇高な修道僧のように、
自分の姿を描いて見せた。
背景の処理など、これを見る限りでも、
始めから両者に決定的な「すれ違い」が
表れているのが分る。
背景に書き込まれた花柄の鮮やかな壁紙。
解説によると壁紙の白い花は
「purity and virginity」を表しているとか。
清潔・純潔・・・
ゴッホとは明らかに一線を引きたいとの
意思表示と受取って間違いはないと思う。
それを補足するように、右上に描かれた人物。
これはゴッホではなく、
エミ−ル・ベルナール(Bernard)だった。
二人が共同生活
を始めるにあたって、
ゴッホの提案で
お互いが自画像を描いて
交換する事になった。
二人の自画像
の上にマウスを
乗せると、
代表作が見られます。
南フランスのアルルにある
「黄色い家」を理想の芸術村に
しようと思いを巡らしていたゴッホ。
一方、ゴーギャンは、
パリでの友人、そして、ライバル
でもあったゴッホの提案する
そのユートピアを夢見て、
『黄色い家』で共同生活と
創作活動を始めたのだが、
意見の相違で口論が絶えなく、
わずか2ヶ月という短い期間で
彼等の共同生活は破局を迎えた。
その後の失意の底で起こした、
ゴッホの耳切り事件は
有名な話だが、、、。
ゴッホは、ゴーギャンが
「黄色の家」に
来ると決まってからは、
有頂天で、夢心地だった。
南仏の鮮やかな色使いで
意欲的に製作活動に取り組み、
その作品でゴーギャンを
迎える部屋を飾った。
そして「ひまわり」の一群も
この時期に生まれている。
タヒチで孤独な死期を
迎えていたゴーギャンは、
アルルの黄色い家で
一緒に暮らしたゴッホを想い
2枚のひまわりを描いた。
ゴーギャンが去った後
彼の精神は異常を来たし、
以後、
病院暮らしを余儀なくされる。
やがて、1890年7月29日
37歳と言う若さで、
自らその天才の生涯を
閉じてしまうのだ。
一方、
1903年5月8日、 ゴーギャン(55歳)
は病気と孤独と、貧困に苦しみながら
心臓発作のために亡くなった。
アルル時代、ゴーギャンが描いた
ひまわりを製作中のゴッホ
黄色い家
夜のカフェテラス
現在のヴァン・ゴッホ カフェ